大阪出張からの帰り、駅でとあるお菓子をお土産に手に取ったら、売り子のおばちゃんが「これ、おいしいねんな」と私の肩を少し叩いて、サンプルをくれた。
こういうのが苦手な人もいるだろう。
でも私は子どもの頃から、こういう大阪の感じや東京の下町の感じが嫌いではなかった。
北関東のイントネーションのない、ともすれば喧嘩を売ってるのではないかという、ズケズケとこちらに入ってくるような方言の中で育ち、それはずっと好きにはなれなかった。
むしろ母親の津軽弁の響きが気持ち良かった。(ただし青森の祖母は何を話しているのか全く分からなかったが)
今でこそ関西弁は全国区だが、半世紀前は関東地方では関西のテレビ番組も少なく、しかし大阪の漫才や上方落語の響きがとても好きだった。
『必殺』シリーズの藤田まことさんは、むしろ『てなもんや三度笠』の印象が強い。『てなもんや』はもちろんリアルタイムで観てはいないが、再放送とかだったのだろうか、学校の親友とよく口ずさんでいた。「俺がこんなに強いのも、当たり前田のクラッカー」。
堺正章さん主演の『西遊記』で、沙悟浄(岸部シローさん)が京都弁(?)でしゃべっていたのが当時カルチャーショックだった。猪八戒(西田敏行さん)は福島弁で、そのカオスさが、YMOと双璧を成したと言っても過言ではないゴダイゴの新時代の音楽と相まって、本当に新しさを感じた。
それらは演技であったりするのだが、生きた言葉が元になっているので、こちらにすんなりと入って来た。
下町の人たちや芸人の中にいる、「コミュ力おばけ」の人に憧れた。
「言葉と心に全く乖離のない、正直な人たち」が好きなのだ。
小さい頃から、そういうところに物凄く過敏であった。他人が見ている「世界観」や「感覚」が分かってしまった。
もちろんそれは科学的に検証可能ではない。単なる「想像」「妄想」と言われたらそれまでだ。
さらにその人の「無意識の欲望」が見えてしまった。
「無意識の欲望」は精神分析を学んでから言語化したものだが、「何を欲しているか」が分かってしまった。親や教師の「嘘」はすぐ分かった。彼らが何を本当に欲しているのかが分かった。その中には、彼らの「エゴ」から来るものも感じていた。「あなたのため」「みんなのため」と言いながら、ただ自分がコントロールしたいだけだということが分かってしまった。
これも検証は不可能だ。誰にも信じてもらえるはずもなく、だから、ほとんど誰にも言うことはなかった。
映画などの表現や、演技表現に興味があったのも、そういった不条理を表現したいという欲求があったからだと思う。
とにかく嘘やごまかし、そして「同調圧力」が嫌だった。「普通」という「思考停止」「感覚停止」、そこから来る「感情停止」になることが嫌だった。
しかし結果的には、「過剰適応」せざるを得なくなる状況にはなった。「感情」を殺し、なるべく「感じないように」しようとした。怒られるし、時には暴力を伴って屈服させられたからだ。
そのため、自分の心をストレートに表現し、相手に伝えることが出来る「コミュ力おばけ」にはとても惹かれた。
表裏があることがとても嫌いだ。言行不一致が。
言行一致なら、悪人でさえも気持ちがいい。
『天空の城ラピュタ』で、ドーラが言う。「海賊が財宝を狙ってどこが悪い!」
正論である。海賊だから財宝を狙うのであって、自ら悪いことをしているという意識を持っている。言葉にとても正直で素晴らしい。
気持ち悪いのは、善人面をして口とは違って悪いことをする奴である。
悪い顔してるなあと感じる人が、本当に悪いことをしていたら、納得である。顔と行動が一致するから。
面倒なのは、そうでないふりをする奴らなのだ。
同じ系譜で、私が「ギャル魂」が気持ちいいと感じるのは、同様に言行一致、表裏がないからである。
誰に対してもタメ口で話すのは、見方を変えれば、「平等思想」を持っているということでもある。
もちろんギャルにもいろいろいるが、この「ギャル」を「侍」に換言しても同様である。
そういう「ふり」をする連中は、こちらがそれに気付いていないと思っているのが多い。
こっちは知っているにも関わらず、彼らはそれに気付かない。いや、気付こうとしないのだ。
「気付いていないと願っている」。これも後にラカンの精神分析を知って納得した。
「自分がそのふりをしていると相手が分かっていないと思いたい」という欲望で、自分を守っているのだ。
ドーラ「おかしなのはあいつらだ。なぜこそこそ娘をさらったりするんだ。お前、あいつらがあの子を生かしておくと思うのかい?」
そうでないふりをしても、必ず分かってしまう。
私は20代前半まで、映画監督と同時にアクション俳優になることを目標としていた。多くの武道・格闘技を習い、今でも一部に携わっている。
武道・格闘技において重要なのが、「感覚」である。
「後の先(ごのせん)」や「先の先(せんのせん)」等を狙い、武道・格闘家は感覚を鍛え抜く。
相手の運動や生理的変化を察知し、優勢を取ろうとする。
確かにその道の「師範」や「達人」といった方々は、その感覚が鋭い。一線のプロ格闘家も。
いわゆる「五感」のほか、「感覚統合理論」で言う平衡感覚や、固有受容覚(手足の位置や動きなどが分かる)、内受容感覚(身体の内部が分かる)といった感覚が研ぎ澄まされているのだ。
だが。
これまで数多くの「達人」的な方々にお会いしてきたが、「人の心が分かる」方々は本当に数少ないと感じている。
これだけ凄い技が出来るのに、態度が横柄だったり、セクハラ・パワハラは当たり前などといった方々。何だこの乖離は。
「心技体」など程遠いのが現実である。
私がお会いして「この人は全てがすごい」と感じた数少ない方の一人は、かつては「硬派」で知られた実戦武道のチャンピオン。昔の写真はいわばそっち系の人と見られても仕方ない。
しかしその方は現在はとても柔和なお顔をされていて、「仏様」と形容しても間違いない。
その方が追求した「究極の型」は、毎年更新され、ある時は東南アジアの舞踊のような美しい型を演武披露された。
全ての「感覚」が開き、「心」が開き、とても美しい。人間としての理想の姿を追い求めているよう。
だがほとんどの人は、実際には「相手のことなどお構いなし」である。
いくら表面的な「感覚」を鍛えても、人間として「人の心を感じる」ことが出来なければ、本当の「強さ」とは言えない。
「侍魂」とは言っても、果たして本当に「強い」のだろうか。
どれだけ生理的感覚を鍛えても、「人の心」を感じるのは、全く別物なのだろうか。
自閉スペクトラム症(ASD)の方は、脳の機能により、情報の受け止め方・処理の仕方が違うので「人の心が分からない」と見られがちだが、果たしてそれだけだろうか。
映画『Feel/Unfeel』に出て来るあるASD・重度知的障害・感覚過敏の方は、人とのコミュニケーションは苦手だが、犬を飼い始めて、その犬が外に出たがっていることを「感じて」、自らドアを開けてあげたという。人間では絶対にしないようなことを、飼っていた犬にしてあげられたのだ。
このエピソードは残念ながら本編ではカットしたが、ご両親もとても衝撃的だったよう。
これを聞いた時、私は胸が締め付けられるくらい熱くなるのを感じた。
「感じる」ことが出来るんだ。犬の身になって「共感」が出来た。これは一体なんなのだろう?
生理的に感覚が「過敏」で、様々な物理的刺激にセンサーや脳が対処しきれず、いっぱいいっぱいで耐えきれなくなってしまう。
ある程度それが処理できると、「余裕」が生まれて、他の人を「感じ」たり、「受け入れたり」することも出来る。
生理的感覚が優れていて、繊細な物理的刺激を感じたり、繊細な運動を出来たりする人でも、人を「感じ」たり、「受け入れたり」出来ない人もいる。増大したエゴが「感じなく」していることが多いだろう。
そして現代は様々な刺激に満ち溢れていて、過敏でない人でも、やっぱり圧倒されてストレスに感じる人が多いだろう。
自分に余裕がなければ、「人を見る余裕」もない。むしろ「見ないように」「感じないように」した方が、身を守れる。
その時代に「流行る」精神疾患や精神障害というのは、やはりその時代の環境・社会の問題を表している。「感覚過敏」が注目されてきた現代は、「情報過多」の弊害が圧倒的に多いだろう。
視覚情報だけに限ってみても、昔はまだモノクロ映画やモノクロTV、限られた雑誌や新聞くらいだけだったのが、今は色数もあふれ解像度も高く細かいカットのTV映像やゲーム、ニュース、スマホなど様々な媒体が溢れている。
パソコン(昔はマイコンと言った)のモニタがモノクロ(2色)から8色、16色、256色と増え、4096色になった時は驚き、さらに65536色のパソコンが出た時には革命が起こったような感じの時代があった。現在は約1677万色や10億色以上になっている。
だがそれらはアナログの無限色とは違う、あくまでもデジタルの「情報」の中になってしまう。
これらの情報量の多さは、人々から「想像力」を奪う一面も持っている。
昔はモノクロの映像に自分自身で「色」を想像する余力を必要とした。だがカラー化が進むにつれ、その感性は消されて行っているだろう。
今でも鮮明に覚えているのが、映画『シンドラーのリスト』で、モノクロ映像が怖いと言った子どもたちが多く、あえてモノクロを奇麗にしたという。この映画は1993年公開。今から30年以上前のことである。その頃から、解像度の高い(情報量の多い)カラー映像が、子どもたちから「想像力」を奪っていたのだ。
そして現代はあまりにも情報量が多いため、処理できる人でも、自分の「都合の良い情報」だけを選ぶことしか出来ない。その情報自体も多いので、何が「重要なのか」を想像することがほとんどないのかもしれない。そのままを受け止めてしまう。そしてアルゴリズムにやられて、自分の都合の良い「情報」だけが「真実」だと思い、そのまま受け止めてしまう。
そして一方では生理的に情報を処理しきれない過敏な人たち。
この対立が両者の間の溝をさらに深め、「分断」が進んで行っているのでは。
いや、この両者だけでなく、あらゆる人と人に当てはまるのでは。
「歩み寄る」余裕すら、そこには隙間がなくなってきている。
本作で重要なコメントをいただいている竹田契一先生は、失語症・学習障害・特別支援教育など多岐に長きに渡って「人を支援する」ことをされている素晴らしい先生です。
アメリカで貧困の子どもたちに接し、日本でも多くの障害を持つ人たち、少年院の子どもたちなど、「実地」を大切にして、「人」を大切にされてきた方です。
ST(言語聴覚士)の養成を日本で始めた時、ある有名俳優さん二人にこう言われたそう。ある女優さんからは「STは暗い、患者の気持ちに寄り添っていない」。ある男優さんからは「STには色気がない、患者に寄り添ってないね」。そういったことを言われたようです。
そこでハッとして「いかに伝えるか」という重要性を感じ取られたようです。これは別にSTに限らず、医者などの医療従事者、教育者、親、というか人間すべてに当てはまることではないか。
「いかに伝えるか」は、相手のことを感じなければ出来ないことだ。ASDの人は確かに他者のことを感じにくい。だが彼らと接している「こちら側」にも、無意識的に優越者だという高い視線がある。
私が「障害者コンテンツ」が嫌いなのもそこにある。そういう「視点」が。
約30年前、聴覚障害者を主人公にしたサスペンス映画を作ろうと、多くの当事者の方と交わった。そこで、当事者と支援者の両方が持っている問題に直面し、断念した。若かったその時の自分ではとても解決不可能だった。
『Feel/Unfeel』では、その答えとなる入口を描いた。ラストに込めた。数十年間、「感じてきた旅」の結果である。
どちらにも「課題」がある。コミュニケーションの問題だ。多くの「表現」は、相手に伝わることを考えていない。それは「表現」ではなく、単なる自己の「表出」に過ぎない。「表現」とは、相手に伝わって初めて完成する。
これだけ「自分」だけの世界になってしまっているというのも、情報量が多くなりすぎたというのが影響の一つなのだろう。
冒頭で語った「コミュ力おばけ」は、相手のことを感じないで迫ってくる人たちではなく、うまく「入ってくる」人たちだ。「人を感じて」、自分のことを受け入れさせてしまう。コミュニケーションを生まれさせる天才。
この原稿を書いている途中、たまたまあるSNSの動画が流れてきた。うつ病で落ち込んで道端に座っている男性に、犬(野良犬?)がやって来て、後ろ足で立ってポーズを決めたり、いろいろ動いたりする。やがて男性は笑って犬を自分の元へ引き寄せる。
動物はほぼ言語を使わない。「身体」の表現でコミュニケーションを図る。それだけで「心が通じて」しまう。
「希望」は、「思考」を超えたそこにあるんだ。